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GWの営業予定です☆彡

2025年04月21日

皆さまは、GWは何をして過ごされるのでしょうか?
小生(佐藤)は全日営業の所存です(爆)、休んで何処か行こうなんて全く考えが及びません。お仕事有りましたら何なりとお申し付けください。開店休業状態で事務所当番しております(の予定です)

子供達は全員別居(巣立ったと言う事)、妻も仕事を持っており、GWに休みを摂れる仕事ではありません。仮に休んだとしても独りで行く所も無し、、、近所の竹山高原温泉、南幌温泉等はイモ洗い的に混んでいる筈ですから行かない方が良いですね、、、パチンコ??全然しません。管理釣り場でのゲームフィッシングならば行きたいですが、近所の10パウンドさんは入場規制が掛かる程に込み合うでしょう。。すると支笏湖?最近は本当に熊が怖いですよね、、、天然釣り場は5年程前から避けて居ります。脚も痛いしね。。。

今日は今まで隠していた、自分の痛い脚の件を綴ってみようと思います。長文です。

丁度今年で30年です。30年前の春に地下鉄サリン事件が有りました。3月に各局報道特番が有ったので思い出した方も居られるでしょう。テロ?って日本で??、東京で???当時26歳、妻と結婚して半年、そんな頃の衝撃的事件でした。暫くは実行犯が判らなくて、警察が内定を続けていて、4月の下旬位に、どうやら新興宗教団体のようだと噂されて居ました。そんな折、4/29未明に自分に災難が降りかかります、、、

豊浦の貫気別川に桜鱒釣りに出掛けたのです。GWに川で桜鱒、後になって考えると鮭鱒保護法違反です。でも自分は何年も前からGWはこの川に遠征して居りました。
財布に入って居たコンビニのレシートで判るのですが、AM4時頃に留寿都村のサンクスで買い物をしております。その後、洞爺村のS字カーブで対向車と正面衝突しました。4:15分頃に110番の通報があって、警察官が現場到着したのが4:30頃、洞爺湖温泉町の交番に居た巡査が1名で現場に出動し、その時は自分は息があり、職務質問に応えたそうですが、4:40位に意識混濁が始まりました、、でもレスキュー車がほぼ同時に来て救助作業が始まり、緊急輸血、AEDを使って蘇生を繰り返し、なんとか6時頃に洞爺協会病院に緊急収容されて、4日間意識不明の重体が続きます。レスキュー車の中では心肺停止しました。

4日目の朝の8時頃と記憶しております。突然意識が戻って、ここは何処?私は誰?と自問自答(あ、事故に遭ったわ!)5/3でしょうかね?
手足はベルトで縛られ、口には強制呼吸器が入って居て、身動きが取れません。眼だけがぼんやりと周囲を映します。広いICUだな、、、左手に人の往来が確認出来ます。妻が居ました、後ろ姿で、白衣に白帽ですが、間違いありません。左手の指だけが動きそうです。3分、5分位妻に念を送ると、振り返った!!指だけで合図を送りました、すると直ぐに妻が外からICUに入って来たーーーその瞬間、足元のガラス越しに自分を監察していた看護婦連中、医師連中が大量にICUに流れ込んできて、奥さんは後で!!と妻を制します。実に妻と話せたのは6時間後の14時頃でした。
後から先生から聞いた噺では、4日間全く動かず昏睡して居たんではなく、強制呼吸器を自分で外したり、点滴が痒いって自分で抜くんだそうです。前夜にはジーパンの中にライターと煙草が入って居る、摂ってくれ、、死ぬぞ!って言ったら、最後に居一服させろって言ったんだそうです。こいつ自分の状況が判って居るんだ、今晩がトウゲだなと思ったそうです。で、当日8時頃ににカンフル(気付け薬)を投与したら5分程で脳波に変化が有ったから、詰め所で待機して待ってたんですって。な~んだ、薬で起こされたのかよ、、、
5/5には強制呼吸器が外れ鼻から酸素。一般個室(でもナースセンターの横で直結)に移動。TVも有るし、電動ベッドも有りました。
5/6の朝のニュースで山梨県上九一色村のオウムの強制捜査が映って居て、妻にこれ何の騒ぎ?って聞くと、地下鉄サリンの捜査だって、、、自分の30年と世間の30年が、今年の3月に結び付くんです。報道特番を見ていて感慨深いものが有りました。被害に遭った当人、関係者の方々のご苦労、ご冥福をお祈りします。

脳外科の初診は脳に損傷無し、外科はステアリングの圧迫により、下腹部内で出血(胃の血管が縦に割ける)、この胃からの出血を呼吸してしまい左肺自血閉塞で左肺機能全停止、肝機能の大部分が停止、右腎機能停止、、血圧は49ー26ですからほぼ死んでる状態です。輸血は4日間で10ℓ、レスキューの中で3ℓ使ってこの血圧。でもね、、自分は自分の状況を知る前に気絶してますから、これは全て後から聞いた噺なんです。気絶してたのが良かったようですね、全部判ってしまうとショック死するようです。松田勇作のなんじゃこりゃーです。その次は失血死、出血多量と言う奴。でもこれはストロー状の針で心臓にダイレクトに血液注入で回避です。まあ、自分に死ぬ気が無いってのが生きれた要素と言うか、、えーとあーと、、、

で!!整形外科は5/11に左足、17に右足の左膝下から切断、右下肢全切断の手術(太ももから下全部)に承諾出来ず、今も両足付いてます(微笑)
26歳の自分は両足が無くなるなんてお先真っ暗でした。そんな承諾書にサインが出来る訳が有りません。腐るから(骨髄炎)切らないと駄目だ、切った方が良いと言われました。自分は嫌なので、脚に執着して(当然と思いますが)、こんな病院じゃ駄目だ、北大とか医大とかに移せとごねてごねて骨再建術をやらせます。自分はその後、骨髄炎等に成らず、30年経っても両足持ってます。
実際に5年間の間に、一緒に入院していた患者の足が無くなったのを3人も見ました。時系列が狂いますが、自分も事故から10年目に東京に仕事に行って右足が真っ青に腫れて、昭和大学病院の救命救急に自分で入り、緊急だ!と言って廊下に有るストレッチャーに横になるや意識不明、、翌日急性骨髄炎の診断が出たのですが、抗生剤の投与で奇跡的に治りました。驚異の幸運です。いや、2度目の奇跡??死なない、切らない、丈夫な体と心(ww)でもね、今は経年劣化ですかね、、痛いし、5年程前からは仕事以外のプライベートの時は右手に杖を突いて左脚を庇う事をしております。
心肺停止、生死の境目、500箇所以上の肉体損傷、18回の全身麻酔の手術を事故後5年掛けて行いまして、今の自分が居ります。お花畑は何度も見ました。足元は白いドライアイスの煙のような場所を、半裸で歩いて居る自分の記憶が何度もあります。手術の度に見ましたね。。ドクターは全身麻酔を掛けるのを嫌がります。18回って、意識が戻らない可能性の方が高いんですって。。で、下半身麻酔で遣りたがる、、でも下半身麻酔が利かないんですよ、自分。特異体質のようです。右足に麻酔掛けると左に利いて、右は痛くて叫ぶ事もありました、、で、仕方がないんで全身麻酔に切り替えて、カウント18です。抜釘手術(クギ、シャフト抜きの手術)ですらも全身麻酔だからね!!ww

どんな事故か言ってませんね、、対向車が自分の車線を走って来ました。自分は相手の車線を走って回避しようとするも、今度は通常に戻る、ぶつかるから自分の車線の路肩に逃げて、そこでクラッシュ!。これは自分がはっきり見た光景です。後に加害者と話しますが、飲酒の居眠りで、ぶつかって目覚めたと言ってました。相手は腕の骨を骨折するだけの軽傷。自分ホンダCR-X(EF9)、相手130クラウンのV8。通りすがりの方が、留寿都村の先のコンビニから110番してくれたそうです。今、事故を目撃したって。でも名前も何も判らないからお礼も出来ませんでした。5/10に事故の写真を警察から見せて貰って、気分が悪く成るほどの出血と死んでる?みたいな自分の顔。半分の長さのCR-X。エンジンが自分の脚に乗ってます。ステアリングは腹に刺さってます。Aピラーの直ぐ傍にクラウンのエンブレム、その直ぐ横に大量に吐血して気絶した我が顔。ユニックでベルト巻きされて吊られれる姿、有り得ない程に横を向いてるその脚。。。CR-Xがクラウンの下に潜り込んでるんです。それを避けてCRXを宙づりにして運転席の下でバーナー使って焼き切って救助ですって。その間?乗ってましたよっ、CR-Xに。

過失割合は完全な貰い事故、自分に過失は無し。相手は自分の1つ年下。その頃は自分も飲酒運転も普通にしてたし、交通違反も沢山したし、同世代の若者を責めてもね、それが事故ですからね。相手を責める事をしても自分の傷は癒えないとなると後はカネだけです。8月に検察庁から電話が病院に来て、相手の処分をどうしたいか?と聞かれました。刑務所にでも入れる事が出来るって、貴方(私)の気持次第ですって、、では、彼を最も軽い刑にしてやってくれ、彼を刑務所に入れても自分の傷が早く癒える事はないし、賠償金が上がる事も無いからだ。。と伝えると、若いのに人間が出来てるって、検察官が言ってました。今だと14年位からもっと長い刑になると思います。飲酒で青年一人半殺しですからね。罰金80万で3年間免許失効だそうです。でも彼から直接貰った金は2万円だけですけどね、、その80万俺のだろ?って感じ。同年の6月から札幌に転院し、翌年の3月一杯迄、札幌中央病院(S9W10)に入院、5年間で通算650日位の入院になりました。苦痛で泣く程のリハビリを覚えて居ります。2度と遣りたくないすね。5年後の示談交渉では勿論、カネの鬼に成りましたよ、当然です!!👹

苦労とか、努力とか、辛さや痛さって言ったらキリがないですよ。言っても楽にはならないしね。
言えば周りは、同情するし、憐れむし、心配します。だから言わない事にしたの。仕事上ではそんな事が有ったとは一切言わない事にしたの。この痛さが判る人は自分しかいないの。思えば長かったな、、最初は車椅子に乗れるようになったら屋上まで行って、這いずってフェンス越えて飛び降りようとか、妻には別れようと言ったりとか、、ネガティブ思考な時が有りました。独りで車椅子に乗れるようになって、トイレに独りで行った時からポジティブになれました。自分で尻が拭ける、自分で髪が洗える、喫煙所にも行けるし、外も移動できる。俺はこのタイヤの上で生きるだけでも幸せだって。秋頃には石山通14条のロイヤルホストに行って、週5でビール飲んでましたよ(もう時効だよね、爆)あの時あそこで死ななかった事を感謝できました!そんな30年でした。生きるって決めたら精一杯楽しく生きて後世(子孫)に見せねばオトコガスタルと言うものです☆彡(キリッ)

そんなんで、職務上の自分は人とちょっと違ったモノの見方をしているのかも?知れませんね。。頭のぶっ飛んだ電装屋。俺が出来ない事なんて無いんだ的な?、、はい。そんな自分が大好きです♡